偽善って怖いよね……『可哀想な蠅/武田綾乃』

面白い小説を読んだので久しぶりに更新。大分走り書きです。もしかしたら読み返して修正するかも。

 

可哀想な蠅/武田綾乃

 

読み終わったあとに痛烈な無力感を突きつけてくる小説。

 

捨て猫の入った段ボールを蹴る男性をインターネットに晒すことで正義を実行した主人公。その投稿がバズった結果、謎のアカウント『パブロフ康成』に粘着される。様々なアカウントに攻撃を仕掛ける彼を主人公は可哀想だと思う。なぜなら、彼がどんなに言葉の暴力に訴えたところで、投稿主がブロックしてしまえば、透明な存在になってしまうからだ。だから主人公はブロックせずにスマホの中で飼うことにする。

 

スマホが手の届く範囲を錯覚させる=偽善を偽善と気づかせなくさせている

スマホによる偽善という部分が特に現代的で、スマホを挟むことで現実が一段階虚構化して、虚構化した結果誰でも正義の味方になれるような気がしてしまうわけで、その危うさを書いた小説としても読めた。

 

蠅という害虫を殺してしまうことが本来正しい姿であるはずなのに、スマホを挟むことで蓋をして、安全圏に逃げて「蠅を殺さない歪んだ優しさ」を振るえてしまう。この境界線を曖昧にする力が現実としてスマホにはあると思うし、この力は今の多様性の空気を後押ししていると思う。だからこそ、この空気の怖い部分を題材として扱っているところが面白いと思った。

 

この作品の後味の悪さは、猫を助ける優しさも、蠅を殺さない優しさも偽善としてとらえられてしまうようなオチにあると思う。親友が刺されたニュースのシーンが特に顕著で、結局人間は一本境界線を引いてしまえば(スマホを挟んでしまえば)、どんな意見に対しても正しさを通せてしまうでしょ? というのがよく表れている。歩道を自転車で走っていた被害者も自己責任でしょう。なんて当事者じゃ言えないはずで、このコメントはまさしく、パブロフ康成を可哀想と言った主人公と全く同じ構図だ。最後まで徹底的に正義感や優しさを破壊された。

 

蠅について

直接的に書かずに猫の死を予期させているのはうまいなと思った。他にも殺虫剤を使うと耐性がついてしまうところなど、全体的に『蠅』の使い方がうまいなと。話の展開的にはそんなことないのだけれど、蠅が群がったグロテスクな光景を想像させられた。

 

本人も朱音について言及されてるし、まさしくブラック武田綾乃作品で、嫌な部分を描いた後味悪い最高の小説です。

 

以下、思い出した作品のメモ

直近で『神様のメモ帳』を読み返していたので境界線のない正義感というところで考えさせられる作品だった。境界線のない正義感を振るうには強くないといけないんだよね……

 

タイトルから綿矢りさの『かわいそうだね』を思い出したけど、どちらかというと(偽善の話としては)『嫌いなら呼ぶなよ』のが近い? 綿矢作品も読み返したいところ。素直な主人公が作者によってイジメられてる感じも最近の綿矢作品に近いタイプかなと。いずれにせよ、武田綾乃作品に登場する主人公(語り部)の中ではかなり素直だなと思いました。